さなぎ長文

けいば 妄言

小説、御神本騎手について。

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東京の浜松町と羽田空港奥座敷までを結ぶモノレールを東京モノレールという。がたがたうるさいがわりと速い。
 それに揺られながら、私は思うのだ。私は今何ページ目を開こうとしているのだろうと。
 小説御神本騎手という本は何ページで構成されていて、わたしはその中の何ページ目を覗きに行っているんだろうか、見開きのTCKの門はいつだってうかれて綺麗に飾られていて、東京のうかれさを凝縮したマスコット(うまたせ君という)が待ち構えていてくれる。
 
 彼は歩く小説のようなジョッキーである。

 

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 たぶんその小説の第1章は、えんえんと歴史学者によって書かれた益田市の歴史であろうか。端的に言うと益田は御神本氏の末裔御神本訓文は益田競馬場にて若きジョッキーになりました。もう2章にいってる。島根の益田競馬場は閉鎖になり彼は大井競馬場へ・・・島根の海の近いのどかな競馬場から、天蓋光り輝くTCKへと・・・・。

 

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 緒言として名前が御神本だ。御神本なんて仰々しい苗字、キャラクターとして申し分ないほどに好スタートだし、彼はまず顔がバカみたいにいい。アイドルのように顔がいいわけじゃなくて(アイドルみたいに顔がいいのは矢野騎手ってのが大井にいるので見てください。弟みたいに顔がいいのは笹川騎ry)業が深い感じに顔がいい。物憂げな瞳が色白な顔に双眸としてはめられている。そして手がお綺麗だ。まるで大理石の白いところをあつめたみたいに手が白くて綺麗だ。ここまで読んでちょっと筆者こだわりすぎかなって思われた方は残念ながら大正解です。まあいいその美しい姿は、だいたい私たちの目の前では、赤胴白星散らし、青袖白星散らしに包まれて、要するに彼は流れ星を一ダースぐらい纏ってやってくるので、本当に彗星の如く現れてお馬さんに乗ってやってきた魅惑の王子様に見えてしまう。 そこまで白髪三千丈ならぬ、白星三千丈と書き立ててしまうのは、やはりあの大井競馬という並々ならぬ非日常の中にあったからであって、大井競馬という文体はファンタジックで巨大なメリーゴーランドに等しく、客席はなんだか花火大会でもはじまるかのようにうかれていて、パドックの周りはもちろん競馬新聞を持った気難しい勝負師の方々が多いけれど、おそらく必ず数人は、大きなレンズのカメラを持った、どちらかというと長浦とか戸田あたりにいそうな、身綺麗な、魔法にかけられてしまったお嬢さんがたがいるのだ(私は身綺麗じゃないのしレンズも小さいので背景の醜い”木”でいい)。流れ星を纏った王子様に魅せられた、魔法にかけられてしまった人々が。

 パドックで騎手が乗って周回する時間は短く、その間に阿鼻叫喚のようなシャッター音が響くときはある。私なんてぶれっぶれにしか撮れない。その緊張感から解き放たれたように返し馬(パドックから出て、馬を大きくレース前に走らせる時)としてお手馬と彼が走り始めると、流れ星をまとった王子様は、魔法で流れ星になってしまう、要するに美しい騎手とサラブレッドは目の前で急加速し猛スピードでゲートに走り去る。

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 月に魔法をかけられ、赤いタスキの可愛い子ちゃんとか、トランプの柄みたいなもう一人のイケメンとか、アンタレスの使いみたいな大井の帝王や、いろんな人たちがうまにのってゲートインすると、うまちゃんたちは魅せられてかつての少年少女たちが馬になったんだな、そういうような錯覚に陥る。

 おそらくもしかしてここは鞭と魔法のファンタジー文学なのかもしれない。絢爛なファンファーレ隊のお嬢さんがファンファーレを吹き、その後に畢竟学状の結果が付いてくる 抜いてもさしても 逃げても先行しても 最後には歓声と夢でしめくくられる。

 だから彼さえきっとおそらく、そういうファンタジックな文学の一ページなのだ 今ここは羊皮紙のページだ。

 でも見る人にとっては 私の目の前のファンタジックな光景は、金銭上のとても重大なレースかもしれないし、まあもともと競馬なんてそういうものかもしれないから、見る人によってはこの羊皮紙は、ただの競馬新聞の1ページなのかもしれない。そう、それでいいのだ、見る人によってはファンタジックで、見る人によってはドライでそれでいいのだ、でも、そこにあるのは、いや、彼にあるのはなにかしらの1ページであってほしいのだ、それはすべての騎手やサラブレッドに対して言われるべきだろうし、いわんや私が彼に対して決めつけてしまうのは暗鬱な思考になってしまうけれど。
 でも私にとっては、許してください、彼は私にとっては小説の中の人間なんです。あまりにもドラスティックな競馬小説の中の登場人物なのです。彼がもし私の目の前に、例えば口取り式のお披露目とか、パドックでの集会で姿を見せたとしても、それは幻覚なのです。私はとうてい、御神本騎手を実在の人間だなんて認められない、彼はきっと漫画か小説かの登場人物で、彼が実在したなんて許せないほどに彼は美しい。
 説明できないことはたくさんあります、じゃあなぜ私のスマホカバーのポケットには、彼がくれた勝ち馬券がはいっているのか(百十円と思い出なら思い出をとった)じゃあなぜ私はまだ日の高い新馬戦で、彼の名を怒号するおじさんの声を聞けたのか(差せましたね)
 じゃあなぜ、あの薄ら寒い明るい第二レースの口取り式あと、綺麗なお姉さんに混じって、私はあなたに握手ができたのか。

 

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 私はいつか終わる御神本騎手という小説を1ページでも、1ページでも読もうともがく醜い木にすぎない、古ぼけたカメラはわりかしいつだってブレた写真しかくれないし、そのなかで奇跡的にきれいにとれた王子様の写真を現像して飾ったりする。
 
 実在しない人は大井競馬場のダートを流れ星のようにかけて行った、流れ星だったからよくわからなかった。

 東京の浜松町と羽田空港奥座敷までを結ぶモノレールを東京モノレールという。がたがたうるさいがわりと速い。
 揺られてだだっぴろい大井競馬場にたどり着いて、パドックサラブレッドに人生相談して、そのうちあの流れ星をひらくのだ。競馬というものを知るにつれて推すようになった福永ジョッキーとちがって、御神本氏を知るのは霹靂であった、なぜなら気づいたら京急線にのって、空港線にいたから。

 小説御神本騎手という本は何ページで構成されていて、わたしはその中の何ページ目を覗きに行っているんだろうか、私はときに悲痛な面持ちで彼を見る。重賞取り逃がして私の胃に穴が空いた時、ああ私はもはや完璧にだめになってしまったのだなと思いながらも、それでも御神本騎手のこと以外は考えられない帰り道もあった。だって美しいのだ、だって全てが美しい、白馬に乗った王子様は第四コーナーからやってくる ああいけません王子様、その子は単勝1.2倍 馬群になんて飲まれては、でもでも でもだってでも私はあなたを応援し続けるだろうし、私はあなたを撮り続けるのだろうと思う。それはもうどんなバッドエンドになったとしても私の責任であるのだ。私はただ読みかけの御神本騎手という小説を拾ってしまって、それに熱中して最後まで読み続け、読み返してもそれは過去であり、ページは否応なく進んで行く。呪いをかけられてしまった醜い木でいいのだ、ただただ追うしかない、ただただ読むしかない、スキャンダラスでグラシアスな、羊皮紙に書かれたとある騎手の小説を、最大限のロマン主義をもってして、最小限の理性をもってして。ああそこに走り去る白馬は確かにいました、名前はフジノウェーブ といいます。

 

 ようこそ大井競馬場へ 私は会いに来ました、羊皮紙の小説よ、白馬の王子様、島根から来た概念よ。

 御神本騎手はそこにいる、ようこそ概念へ、思考を止めてカメラを構える準備は、できていた。

 

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