さなぎ長文

けいば 妄言

うがい、手洗い、ブラストワンピース

 

 

 誰か馬を応援したいという時はだいたいその馬を一旦擬人化してその様子を妄想して応援してしまうのだから、正当な競馬ファンからはその様子は変な目で見られても当然ではある。結局私は本当に好きなものごとを応援するときは、だいたい自分の中にそのものごとの虚像をつくってそれにはまりこんでしまうかもしれなくて、でも、柵の向こうから声を枯らして応援することを 許してくれるね。
 
 ブラストワンピース はたとえば天真爛漫な青年で食べるのが好きでおおらかでいつも笑っている。微笑んで。なにか辛いことがあっても どうにかなるにぇって笑っているのだ。その姿は大きくも見えるし頼もしくも見える。

 ブラストワンピース の名前を知ったのは平成最後のダービだった。ワグネリアンが器用に蓋をしたその相手がブラストワンピース であった。そりゃあ辛いだろう。そのころはそれぐらいにしか思っていなかった。次に新潟記念で圧勝したのは風の噂とともに聞いた。その頃は、ただ名馬の一人としか思っていなかった。

 有馬記念は普通通りに福永さんの馬を買って(クリンチャー)その時もまだ彼は馬名でしかなかった。しかしある日、彼の名前で検索するとどんどん彼の素顔を知ると錯覚することになる。天真爛漫で大食らい。緑のシャドーロールはなんと視野を調節するためではなく顔が大きく見えてしまうからその矯正のためらしい。なんという愛されキャラなのだ。
 その日からなんとなく私はブラストワンピースが気になり始めていた。数ヶ月経ったダービーデーはどちらかというと目黒記念が本命のレースであった(でもその日わたしは新横浜でサッカーをみていたんだけれどね)目黒記念では斤量に泣いていたけれどそれでも私は新横浜から帰りのラジオ越しになんだか夢を見ていた。

「僕はねえ ごはんがだいすきなんだよう?あとはしるのがすき。なかやまがとくいかな?いけぞえさんとがんばってたけど さいきんはかわださんらしいんだ。 にえ」

 

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(絵だとそんなににえにえいってない

 

 私の頭の中のブラストワンピース はいつだって優しい。もちろん私はシルクのクラブ会員ではないし、ただの一人の競馬ファンでしかないから こんな個人的な妄想から彼を応援するのはとんでもないことなのかもしれない。だからこそこっそり こっそりしたいんだけど。

「ぼくはフランスでおねいさんに片思いしていたんだけれど血がちかかったらしいんだ・・・ フランスでもさんざんだったし でもぼくは走るよ」

 いろんなことを考えて参る夜もあるけど、ブラストワンピースは一時期私の希望の一つであった。しかしてその存在は虚像でしかないのかもしれない。彼は一頭のサラブレッドでありワンピースを着た青年ではないのだ。でも それでも・・・・
 彼のあの、命を燃やして笑みを絶やさい生き方を妄想するだけで、元気になれた夜があったのだ。歩き続けられる昼もあったのだ、それは 今でも

 

     凱旋門11着のちに有馬を使わずにAJCCに向かうニュースは確かに競馬ファンには物足りなかったのかもしれない。
     でも、私にとっては 絶対に行けないであろう有馬(こんでる こわい)よりAJCCに出てくれた方がよかった。
     全部全部個人的な願望だ。でも 書きたい話だ。

 

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 寒空の中で中山に赴いた。中山に行く昼はいつだって吐きそうだ。だって中山にいくほどの用事ってのは大体御神本さんの応援だとかの特別な時だからだ。今日だって特別な日なのだ。私は初めてブラストワンピース に会うのだ。天真爛漫な・・・・いや・・・さなぎは馬の考えていることなどわからないじゃないですか・・・競馬とは何かもわからないで・・・でも・・・ああさっきから逆説しかつかっていない。

 

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(どみそはおいしい

 寒い中山のパドックでずっと待っていたときは。なんだかはなしづてで聞いていた友人の友人で憧れの人を待つ感覚であった。
 9レース、10レースの喧騒を遠耳に聞きながらずっと くるかもしれない、来ないかもしれない腹痛と戦いながら待っている(結局来なかったし杞憂だった)
 私は待っていた。
 そういきなり話が最近の情勢に変わるのだけれど、今はもしかして非常事態なのかもしれないし実際そうなのだろうと思う。そういうとき、家でじっと非常事態が去るのを待ってうがいや手洗いなどをするしかないのだ。そのほかに、自分の心や信念が揺らいだときは、無条件にすきで、素敵な、それはたとえば騎手だったり馬だったり先生だったり厩舎のひとだったり・・・を画面越しに応援することが大切なのかもしれない。
 話を一月の末に戻す。
 私は待っていた、ブラストワンピースを。

 

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 のそのそと中山のパドックに現れたブラストワンピースは 確かにワンピースを着た青年ではなかった。一頭のサラブレッドだった。かたわらの厩舎のひとは寒いのかブラストのお洋服を持っていた。彼はのそのそと歩いていた。首は下げて、なんだか「そんなにきんちょうしてないにえよ」と言っているような感じではあった。

 
「僕はねえ ごはんがだいすきなんだよう?あとはしるのがすき。なかやまがとくいかな?いけぞえさんとがんばってたけど さいきんはかわださんらしいんだ。 にえ」

「ぼくはフランスでおねいさんに片思いしていたんだけれど血がちかかったらしいんだ・・・ フランスでもさんざんだったし でもぼくは走るよ」

「人生 いきていればいいことあるにえ 」

 
 一頭のサラブレッドをただずっと見ていた。

 希望を持つことが大事なのかもしれない。例えばそれが幻想だとしても この時勢ならばきっと希望をもって耐えることが必要だ。たぶん。うがいをして、手洗いをして、心に希望を持っておく。たとえば、ブラストワンピース とか。

 

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 川田騎手が騎乗したとき、ふっと首をあげたブラストワンピース を見てからの記憶はあまりない。ただ私はたぶん競馬をするうえでこれ以後もこれ以前もないほどに最後の直線で叫んだ。ブラストーーーーー!って それは単勝三千円かけたからとかは別の理由で。彼は私の希望だったからだ。重ね重ねだけれど、 希望を持つことが大事なのかもしれない。例えばそれが幻想だとしても この時勢ならばきっと希望をもって耐えることが必要だ。たぶん。うがいをして、手洗いをして、心に希望を持っておく。たとえば、ブラストワンピース とか。

 

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 今私は無観客の大阪杯の観戦を終えてこれを書いています。競馬というのは奇跡のスポーツで、無観客でも開催できるし、ネット越しに馬券を買える。柳の下にどじょうはいなくて今回はお金は帰って来なかったけれど、はしる彼を画面越しで見られただけでわたしは幸せだった。緑のシャドーロール、ほんとうにお似合いですね。またいつか声を上げて応援したい。この世界には、希望を持って生き抜くことがだいじなところまできてしまったけれど、まあ、いまのところの希望を妄想の中で作って生きていっていいよね。虚像でも応援しましょう。生き抜くためには それは生き抜くためには希望が必要なのです。うがい。手洗い。ブラストワンピース 。

 


 次の凱旋門までに収束していたらなあ・・・・。